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東京高等裁判所 平成3年(う)861号 判決 1992年12月07日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、被告人、弁護人小篠映子、同大塚一男、同江口正夫、同安井規雄各作成名義の控訴趣意書(同大塚一男作成名義の「控訴趣意補正書」を含む。)、同古川史高及び同倉田大介連名作成名義の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官渡部喜弘作成名義の答弁書に、それぞれ記載のとおりであるから、これらを引用する。

控訴の趣意は、理由不備ないしくい違い、訴訟手続きの法令違反、事実誤認、法令適用の誤り等多岐に亙るところ、そのうち事実誤認以外の控訴理由については、いずれも理由がないが、原審においては、専ら被告人が財布を窃取したか否かが争われ、当事者双方の立証や原判決の判断もこの点を中心になされているとともに、控訴趣意もこの点に関する事実誤認の主張に最も力点がおかれている。そこで、控訴趣意のその余の論旨に対する判断に先立ち、先ず最も中心的な争点である事実誤認の点について検討する。

控訴の趣意のうち、事実誤認をいう点は、要するに、被告人は被害者のショルダーバッグ内から本件財布を抜き取り窃取していないのに、被告人が財布を窃取したと認定した原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある、というのである。

一  本件公訴事実及び被告人の弁解並びに原判決の認定

公訴事実は、原判決の認定した「罪となるべき事実」と同一であるが、「被告人は、平成二年三月一日午後七時一三分ころ、東京都調布市国領町五丁目付近を進行中の京王帝都電鉄株式会社京王線新宿駅発京王八王子駅行き下り特急電車内において、乗客Aが左肩に掛けているショルダーバッグ内から、同人所有の現金一万六七五円及びキャッシュカード等一六点在中の財布一個(時価約一万円相当)を抜き取り窃取したものである。」というのである。

被告人は、捜査段階でも当初のうちは被疑事実を否認していたが、その後これを認めるに至り、検察官に対する平成二年三月一四日付、同月一六日付各供述調書、司法警察員に対する同月一五日付供述調書(以下、「一四日付検面調書」、「一六日付検面調書」、「一五日付員面調書」、あるいはこれらを総称して「自白調書」ということがある。)では、犯行の動機、態様あるいはそれまで犯行を否認していた理由や自白するに至った理由等についてかなり詳細な供述をするに至った。ところが、被告人は、原審公判廷では再び否認に転じ、「私は財布を盗んでいません。間違えられて捕まえられたものです。」(原審第一回公判期日)と陳述した。しかし、被告人は、原判示日時ころに原判示の電車内で本件財布を手にしていたこと自体はこれを認めていた。そして、被告人が財布を手にした事情等について、後記のとおり弁解した。

これに対し、原判決は、被告人が財布を窃取したと認定し、「窃盗と認定した理由」の項において、その理由を説明しているが、その説示に徴すると、原判決は、有罪の心証を形成するにあたって、Aが財布がなくなっているのに気付いたのと近接した時点で被告人が財布を手にしていた事実及びその後の被告人の行動といった状況証拠を相当重視しているものとみられる。そして、被告人が財布を手にしていたことやその後の自己の行動等について弁解するところはいずれも甚だ不自然であるとし、その判断・評価を前提としつつ、被告人の自白のうち、検察官に対するものは、「自白するに至った理由、本件財布を抜き取った内容及びその前後の状況等につき、その体験性を認めることができ、本件犯行に密接に関係する重要部分に一貫性もあ」るなどとして、信用できる旨判断した(なお、原判決は、被告人の自白調書のうち一五日付員面調書の信用性の如何については、明示的な判断を示していない。また、その説示に照らすと、原判決は、一四日付及び一六日付の各検面調書の信用性を検討するにあたり、一五日付員面調書を捨象してしまい、検討の対象ないし資料としていないものと考えられる。)。そのうえで原判決は、被告人の検察官に対する各供述調書等の「証拠の標目」に挙示する各証拠を総合して、公訴事実と同趣旨の「罪となるべき事実」を認定し、被告人を有罪とした。そこで、以下、所論に即して、被告人が財布を窃取したとする原判決の事実認定の当否を検討するが、先ず、原判決が重視した前記の状況証拠に対する原判決の評価・判断につき検討を加え、そのうえで、被告人の自白の信用性の如何について判断することとする。

二  Aが財布がなくなっていることに気付いた際とその前後の状況及び被告人の行動と弁解等

(一)  Aがショルダーバッグに在中していた筈の財布がなくなっているのに気付いた際とその前後の状況等は、概ね原判決が「窃盗と認定した理由」の一ないし三項に認定・説示するとおりであったが、その主要な点は以下のとおりである。

すなわち、Aは、電車が調布駅のホームに入ったころに左肩に掛けていたショルダーバッグ(革製で、高さ約一二センチメートル、底部が約一八センチメートル×七センチメートルのもの。)の口が開いており、在中していた筈の財布がなくなっているのに気付き、傍らに居た同僚のBに対し、「財布がない。」と大きな声で伝え、付近の床を捜したが財布は見当たらなかった。その際には、周囲の乗客らも協力してくれたが、Aの左後方にいた被告人は、とくに協力する風も見せず、ドアーの方を向いたままであったが、電車が停車してドアーが開くと、下車しようとした。そこで、Aが被告人に「ちょっと待って。」と声をかけたが、被告人はそのまま下車してしまった。その様子に不審を抱いたAがBとともに被告人の後を追ったところ、被告人は、前から二両目の車両に乗り込み、手にしていた財布を前から二つ目の左側のドアー付近の網棚の鞄等の間にあった折りたたまれた新聞紙の下に置いたうえ、再びホームに降りた。以上の事実が認められる。

(二) 右認定事実によれば、被告人は、Aが財布がなくなっているのに気付いて騒ぎ出した時点で、財布を所持していたにもかかわらず、これを秘していたことが明らかである。しかも、被告人は、Aから声をかけられたにもかかわらず、Aが捜している当の財布が被告人の手元にあることを告げなかったばかりか、Aらを振り切るようにして下車してしまい、更に他の車両に乗り込んで財布をその網棚に置いて立ち去ろうとしたというのである。このような被告人の一連の行動は、一般的にいえば、いかにも不審であって、人に被告人が財布を窃取したのではないかとの強い疑念を抱かせるものであるといわなければならない。

(三)  この点につき、被告人は、原審公判廷において、要旨、次のように弁解する。すなわち、「電車が調布駅に近付いたころ、なにか物が被告人の右太腿に落ちてきたので、これを掴んだところ、財布であることが分かった。そのころ、Aが財布がないと騒ぎ出した。自分の手にある財布を捜しているのではないかと感じたが、財布を出したら自分が盗んだと疑われ、周囲の注目を集めることになり、それが嫌だった。そのうちに電車が調布駅に着いたので、いつものように府中駅の出口に近い車両に乗り換えようとして一旦下車したが、その際には周囲の注目を浴びないよう、財布をタウンジャケットのポケットに入れていた。ホームで財布を駅員に届けるつもりであったが、近くに駅員が居なかったので、府中駅で被告人を迎えに来ている長男のことが気になり、財布を持ったまま前から二両目の車両に乗り込んだ。そして、財布を網棚に置いておけばいずれ持ち主に戻るだろうと考え、本件財布を網棚の上に置いたところ、Bに声を掛けられたので下車した。」というのである。

(四) 被告人の右弁解には、いかにも不自然・不合理な印象を禁じ得ないものがある。しかし、本件電車は、明大前駅を出たころから相当混んでおり、立っている乗客の身体が互いに接触しあう程で、Aが肩に掛けていたショルダーバッグも右後方に引っ張られ、肩ひもを引っ張っても戻らないような状態にあったというのであり、このような車内の混雑の状況に照らして考えると、乗客らの身体等に圧迫されてショルダーバッグが捩れるなどし、その圧力でマグネットのホックがはずれ、その蓋が開いてしまうことは十分にあり得るところと思われる。また、ショルダーバッグの蓋が開いてしまえば、何らかの拍子に在中していた財布がショルダーバッグの中から押し出されて落下し、被告人の脚部にあたることも、全くあり得ないわけではないと考えられる。また、翻って考えてみると、Aが財布がないと言い出し、Bや周囲の乗客らが騒ぎ出した際に、一瞬の機を逸して自分の手元にその財布があることを言い出しそびれてしまい、その後は被告人が弁解するような心理状態に陥り、ただ財布との関わりを早く断ちたいばかりに、結果的には却って不審を抱かせるだけであるというほかない前記認定のごとき不合理な行動をとってしまうことも、全くあり得ないとまでは断定することもできないと考えられる。このように、被告人が取った行動はいかにも不審を抱かせるものであり、被告人の弁解も、これまた甚だ不自然・不合理な印象を禁じ得ないものであるが、さりとて、その弁解するようなことも絶対にあり得ないとまではいいきれない。そうすると、Aのショルダーバッグから財布がなくなったのと接着した時点に被告人が財布を手にしていた事実やその直後の被告人の行動等の状況証拠は、被告人が財布を窃取したことを示す動かし難い証拠であるとまではいえない。

三  被告人の自白とその検討

被告人は、平成二年三月一日に公訴事実と同趣旨の被疑事実により緊急逮捕された直後から被疑事実を否認し、原審公判廷における前記の弁解と同趣旨の弁解をしていたが、同月一四日に至って、否認から自白に転じた。そして、同日から同月一六日までの間に、検察官に対するもの二通及び司法警察員に対するもの一通の合計三通の自白調書が作成されている。本件では、公訴事実のうちの被告人が財布を窃取したとの点に関する直接的証拠は、これらの捜査官に対する三通の自白調書のみである。そこで以下、検察官に対する自白を中心に被告人の自白全体の信用性について検討を進める。

(一)  先ず、被告人の自白調書の内容のうち、重要性が高いと考えられる被告人が財布窃取の犯意を生じたとする時期及び窃取の具体的態様に関する部分をみると、その要旨は次のとおりである。

1  一四日付検面調書

「被害者の女性がやや左前に立っており、左肩に掛けていたショルダーバッグが私の下腹部あたりにきていた。それで、私は自分の手提鞄を左手から右手に持ち換えようと思い、右手を前の方に動かしたとき、右手がショルダーバッグの蓋のところに引っかかり、その蓋を上に持ち上げるようになったので、ショルダーバッグのスナップがはずれたらしく、蓋が開いた状態になったことが手の感触で分かった。そのとき、私は悪い気を起こして、バッグ内には財布などもあるだろうと思い、右手を手さぐりでショルダーバッグの中に入れたところ、右手の先に財布らしい物が触れたので、親指、人差指、薬指の三本の指で摘むようにして財布を掴んで抜き取った。」

2  一五日付員面調書

「女性が左肩に掛けていたショルダーバッグが私の腸のところに当った。満員だったので、衝動的にショルダーバッグのホックを開け、右手をバッグに差し入れたら上部に財布が入っており、その財布を抜き取った。」

3  一六日付検面調書

「鞄を持ち換えようと思って右手を左側の方に動かしたとき、右手がショルダーバッグの蓋の下側に当たり、マジック式のホックがはずれたので、悪い気を起こし、右手を差し入れたら、指先に財布の止め金らしい物が当たった。財布だと思って、三本指か、小指を除く四本指で抜き取った。」

(二)  右に摘示したところを相互に対比しつつ検討すると、被告人に財布窃取の犯意が生じたとする時期と窃取の具体的態様のいずれの点についても、二通の検面調書をみるかぎりではその述べるところはほぼ一貫しているといえるものの、一五日付員面調書を含めて被告人の自白内容を全体的にみると、そこには顕著な変遷のあることをみてとることができる。すなわち、一四日付検面調書では、ショルダーバッグが被告人の腹部にあたった時点では未だ犯意は生じておらず、被告人の右手がその蓋に引っかかって蓋が偶然開き、それに気付いた時点で初めて犯意が生じ、右手をショルダーバッグの中に差し入れ、手に触れた財布を指で摘むようにして抜き取ったというのである。これに対し、一五日付員面調書では、一転して被告人の腹部にショルダーバッグがあたった時点で犯意を生じ、右手でショルダーバッグのホックを開けたうえ、右手を中に差し入れて財布を抜き取ったというのである。ところが、一六日付検面調書では、反転して、犯意を生じた時期と窃取の具体的態様のいずれについても、ほぼ一四日付検面調書と同趣旨の供述に戻っているのである。

このように、一四日付と一六日付の各検面調書だけではなく、一五日付員面調書をも併せて被告人の自白を全体的に検討すると、被告人の自白には、犯意を生じた時期や財布窃取の具体的態様といった極めて重要な点に顕著な変遷がみられるのであって、自白を全体的にみると、一貫性があるとは到底いえない。また、その変遷は、被告人が自白し始めてから僅か三日間という短期間に、しかも日毎に生じている。それも、一四日付検面調書によれば、被告人は、「いつまでも嘘をつき通せないし、実兄や弁護人からも正直に話すように言われましたので正直に話す気持ちになったのです。」として、捜査の初期の段階から維持していた否認の態度を覆して自白に転じたにもかかわらず、なお生じているのである。仮に、一四日付検面調書に表れているように、被告人が自己の体験したところを正直に話す気持ちになって自白するに至ったとするならば、取調べに当たった捜査官が異なるとはいえ、すぐその翌日に犯意を生じた時期や窃取の具体的態様といった核心的ともいうべき重要な部分について供述を変え、更に日が変われば、またこれを元の供述に戻すなどといったごとき事態が生じるなどとはたやすく考えられない。しかも、このような顕著な変遷があるにもかかわらず、一五日付員面調書と一六日付検面調書のいずれをみても、変遷が生じた理由についての説明らしきものすら見当らない。まことに不可解であり、不自然かつ不合理であるといわざるを得ないが、このような不自然・不合理で不可解な被告人の自白に、原判決がいうような「体験性」を認めることなどは到底できない(原判決は、一四日付及び一六日付検面調書の信用性を検討するにあたって、一五日付員面調書を捨象した理由を示していないが、日付的にもその中間に位置する一五日付員面調書を捨象してしまうのを相当とするような合理的理由があるとは考えられない。)。

右のとおり、被告人の自白を全体的にみると、一貫性もなければ、原判決がいうような「体験性」も認められず、被告人の自白の信用性には払拭し難い重大な疑問があるといわなければならない。

(三)  更に、関係証拠により認められる次の諸事実に照らして検討しても、被告人の自白の信用性には少なからぬ疑問を投げかけざるを得ない。すなわち、Aは、そのショルダーバッグの中に本件財布のほかキャッシュカードやテレホンカードとともに鏡一個(高さ約一二センチメートル、巾約12.1センチメートルの略円形の台座に、縦約1.8センチメートル、横約4.5センチメートルの蝶番部が付けられたもの。)を入れていたことが認められる。しかも、その鏡は、財布の上にかぶさるような状態で入れられていたというのである。そして、被告人の自白によれば、いずれにしても、被告人はショルダーバッグの中に右手を差し入れて財布を抜き取ったというのであるから、右のごときショルダーバッグ内の財布や鏡の収納状況及び前記のショルダーバッグの大きさ等に照らして考えれば、当然被告人の手は鏡に触れることにならざるを得ないものと思われる。しかるに、被告人の自白には、鏡もしくはそれらしき物に関する供述は一切みあたらない。この点でも、被告人の自白は、甚だ不自然であって、実際に体験したところをありのままに述べているとは考えにくく、その信用性には少なからぬ疑問を投げかけざるを得ない。

また、本件電車は、前記のとおり、被告人が財布を手にするに至った時点では、乗客らの身体が互いに接し合い、身動きもままならぬほど混雑し、満員状態であったが、被告人は、その車中で教科書やノート類等を入れた鞄(高さ約二八センチメートル、横約41.5センチメートル、重量約五キログラムのもの。)を手に持っていたことが認められる。このような状況に照らすと、被告人は、その行動を大きく制約され、身軽に行動できるような状況にはなかったことが明らかである。また、本件全証拠を仔細にみても、被告人が持ち主や周囲の者に悟られることなくバッグ類から財布等の在中物を抜き取る特殊な技能を身に付けていたことを窺わせるような事情は全く見当たらない。加えて、被告人は、家庭を持ちながら、義父が営む歯科医院を継ぐべく歯科医を目指して歯科系の大学に在学中のものであって、とくに経済的に窮していたような状態にはなかったものと認められる。その被告人が、自白に表われているように、他人のショルダーバッグが体に接触するほど手近なところにあり、仮にその蓋が開いていたことから出来心で財布を盗もうとしたとしても、当時の混雑ぶりや大きな鞄を持った状況では身軽に行動できるわけがなく、したがって、気付かれても逃げ場がなく、逮捕される危険性が甚だ高い状況にあった。しかも、被告人としても、逮捕されるような事態に陥れば、歯科医師への途も閉ざされることになりかねないし、家庭までも破壊し、自らを破滅させるおそれすらもあることぐらいは、これを容易に予測できた筈である。それにもかかわらず、その被告人がこれらの危険を犯してまで敢えて在中の財布を窃取しようとしてショルダーバッグに手を差し入れるがごとき行為に出るものとは、たやすく考えられない。被告人の自白に表われた行動は、証拠上認められる被告人のおかれていた客観的状況やその立場等とは、いかにもそぐわないものであり、この点でも、被告人の自白の信用性には疑念を差し挟むべき余地があるといわざるを得ない。

(四)  ところで、所論は、被告人が否認を翻して自白するに至った理由について、被告人は、本件で逮捕・勾留され、学業等への影響をおそれて焦燥感にかられていたところ、親族らから「事実を認めないなら、示談もできないし、勾留されたままになる。」と説得され、事実を認めれば早く釈放されると考え、虚偽の自白をした旨主張し、被告人もこれに沿う弁解をしている。そこで、検討するに、関係証拠(当審において取調べたものを含む。以下、同じ。)によると、次のような各事実が認められる。すなわち、被告人は、前記のとおり、歯科系の大学に在学する学生であったところ、身柄拘束が長引く中で、学業が遅れて進級できなくなり、歯科医師国家試験も受験できなくなるのではないか等と考え、焦燥感をつのらせていた。一方、被告人の親族らも、被告人の身柄拘束が長引くことによる学業等への影響を心配し、とにもかくにも早期に被告人の身柄の釈放を得なければならないと考えていた。そして、被告人の義父と親交があった関係で依頼をされて弁護活動を始めた能登文雄弁護士(なお、同弁護士は、平成二年三月二〇日に弁護人に選任され、同年四月四日にこれを辞任した。)は、被告人が逮捕された直後ころから、本件の捜査を担当した捜査官らと接触するとともに、平成二年三月二日から同月一二日までの間に三回にわたって被告人と接見するなどして事実関係の調査にあたった。被告人は、能登弁護士に対しても、本件財布を窃取したことを否定していた。しかし、能登弁護士は、調査結果にもとづき、被告人が本件財布の窃取を否定したままでは不起訴処分に付されることは期待できないと判断し、被告人の主張・弁解にしたがってその無実を主張する一方、被害者との示談を進めて被告人の身柄の早期釈放の実現を目指す「二本建」で弁護活動にあたる方針を立てた。そして、能登弁護士は、被告人の親族らに対し、「否認のままでは出られない。事実を認めたことにして被害者と示談するように。」との助言をした。その助言を受けて親族らはAに示談の申入れをしたが、Aからは財布を盗った事実を認めない限り示談には応じられないとして断られた。そこで、被告人の妻や実母らは、被告人に対し、「事実を認めなければ示談もできないし、釈放の目処が立たない。」などとして、ともかく財布を窃取したことを認め、早期釈放を実現できるよう努めるべきである旨重ねて説得した。しかし、被告人は、その説得に応じなかったので、実母の頼みを受けて、被告人の実兄である甲2が同月一二日午前八時五〇分ころから約一五分間被告人に接見し、「被告人の妻の言うようにした方が良い。本件財布を盗ったことを否定していれば、身柄の拘束が長引くだけである。」として、財布を窃取したことを認めるよう更に説得した。その後、被告人は、自ら求めて同日午前一一時三三分ころから約一〇分間妻と接見した。そのうえで、被告人は、同月一三日に取調べを受けた際に、担当捜査官であった貝沼忠男副検事に対し、財布を盗ったことを認める旨を伝えた。しかし、貝沼副検事は、同日は他の事件の被疑者取調べの予定があって時間がなかったことから、翌日に詳しく聞くとして、同日には被告人の供述録取書を作成しなかった。そして、翌一四日に自白を内容とする一四日付検面調書が作成され、次いで一五日付員面調書、一六日付検面調書が作成された。以上の事実が認められる。

右の認定事実にかんがみつつ、前記のとおり、被告人の自白には、これを全体的にみると、重要性が高いと考えられる窃取の具体的態様等に関する部分に不合理な変遷があることをも併せ考え、総合的に検討すると、所論が主張し被告人が弁解するように、身柄の拘束が続き、学業への影響等を心配し焦燥感にかられた被告人が、妻や実母あるいは実兄ら親族の「財布を盗ったことを認めないと、示談もできないし、釈放の目処が立たない。」との説得を受け入れ、あえて虚偽の自白をするに至ったのではないか、とのかなり強い疑念を抱かざるを得ない。したがって、一四日付検面調書に表れているように、果たして、「本当のことを正直に話す気持ちになった」から捜査官に自白するに至ったものであるかどうかは、甚だ疑わしく、この点からみても、被告人の自白の信用性には、合理的な疑いをいれる余地があるものというべきである。

(五) 以上、被告人の自白が果たして信用に値するものであるかどうかにつき種々の観点から仔細に検討を加えてきたが、いずれの観点からしても、被告人の自白を信用するには、合理的な疑いをいれる余地があるといわなければならない。また、原判決が被告人の検察官に対する自白の信用性を判断するにあたって前提とした前記のごとき被告人の行動の不審なことや弁解が不自然・不合理な印象を禁じ得ないこと等も、その信用性を担保するものとはいえない。結局のところ、被告人の自白は、一四日付及び一六日付各検面調書に表れたところを含めて、全て信用できないものというべきである。

四  まとめ

以上のとおり、Aが財布がなくなっているのに気付いたのと近接した時点で被告人が財布を所持していたことや、その後の被告人の一連の行動等はいかにも不審であるうえ、これらにつき被告人が弁解するところも、不自然・不合理な印象を禁じ得ないものがあるが、さりとて、被告人が弁解するがごときことも絶対にあり得ないわけではないと考えられる。そうすると、原判決が有罪の心証を形成するにあたって重視したと思われるこれらの状況証拠は、被告人が財布を抜き取り窃取したことを証明する動かし難い証拠であるとまではいえない。

また、被告人が財布を窃取したことを証する唯一の直接証拠である被告人の捜査段階における自白は、既に説明したとおり少なからぬ疑問があり、信用できないといわなければならない。

そして、更に本件全証拠を精査しても、他に被告人が財布を抜き取り窃取したことを認めるに足りる証拠はなく、結局のところ、本件については、「疑わしきは被告人の利益に」の原則に従い、犯罪の証明がないことに帰着するものというべきである。そうすると、被告人が財布を抜き取り窃取したと認定した原判決には、事実の誤認があり、その事実誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかである。したがって、原判決は、弁護人らのその余の論旨について説明するまでもなく、この点で破棄を免れない。論旨は理由がある。

五  原判決の破棄及び自判

そこで、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書により、当裁判所において更に次のとおり判決する。

本件公訴事実は、前記のとおりであるが、被告事件について犯罪の証明がないので、同法三三六条により、被告人に対し無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官小泉祐康 裁判官鈴木秀夫 裁判官川原誠)

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